検校面田
塙保己一先生の生家の近くに、「検校面田の石碑」が建てられています。
塙顕彰会の事業部会委員の田中学は、「江戸時代に寺社領の様に年貢を免除された『検校免田』で、塙検校の収入となるが、生家から何度も借金をして、返済が遅れたために、生家が借金の形として質入した田畑が人手に渡る等と迷惑をかけた事への返礼として、生家が管理した田」と推測しています。
当時は検校になると莫大な収入があり、裕福な暮らしをしていた例が多いのですが、塙保己一先生は群書類従の版木出版の為に各所から借金をして、生家から何度も借金を重ねました。
なお、塙記念館には、生家から塙保己一先生に貸し付けた借用証書が5枚ありますが、当時の農業生産では五十両・百両(現在の貨幣価値では5百万円・1千万円)という大金は生み出せないために、生家は高利貸しから借金をして用立てたため、生家の田畑が借金の形に取り上げられ、塙保己一先生がお金を返して田畑を買い戻したため、地元では『塙検校の生家は放蕩で身を持ち崩し、塙検校から何度も援助してもらっている』と誤解されてしまいました。
田中学は、生家の名誉回復のために、この説を広く啓発したいと考えています。
ただし、明治政府になり、租税免除の特権は無くなってしまいました。
検校面田の石碑に彫られている文字は
「児玉郡金屋村大字保木野字前田
検校面田弐段拾八歩
昭和六年九月十二日 塙検校百拾回忌 地主荻野武平建之」です。
検校面田の石碑の場所
検校面田の石碑から南側を見る
【検校面田の案内図】